恵みのゆえに、信仰によって

エペソ人への手紙2章1~10節

「恵み」あるいは「信仰」という言葉は、教会では頻繁に用いられていて、だれでも知っている言葉であると思います。その反面、誤解されることの多い言葉でもあります。私たちの信仰が健全に成長していくために、いくつかの注意点を以下に述べることにいたします。

1、主語に注意する必要があります。1~3節の主語と4~7節の主語が違っています。前者の主語は「あなたがた」あるいは「私たち」です。後者の主語は「あわれみ豊かな神」です。前者は、私たち人間がいかに罪深い者であったかが述べられており、後者は、神がしてくださった救いの御業の豊かさを述べています。8節では、再び「あなたがた」が主語になっていますが、最初の「あなたがた」とは変えられている「あなたがた」であり、救いが神からの賜物であることが強調されています。

2、「私の信仰」という場合、イエス・キリストと切り離された「私の」信仰であるとか、教会と切り離された「私の」信仰ではなく、「キリストにあって」あるいは教会との結びつきの中で持つことが出来る信仰です。

3、「恵み」と「信仰」は不可分の関係にあります。切り離して考えることはできません。「あなたがたは救われたのは、ただ恵みによるのです。」その恵みを受け取るのが信仰なのですが、その信仰は「恵みのゆえに」心に生じるのです。

4、信仰は、単に心に念じることではありません。主イエス・キリストへの信頼を込めた応答なのです。信仰は私たちを主イエス・キリストへと結び合わせます。

5、信仰の特徴は従順です。信仰は神への従順、主イエス・キリストへの従順に現れます。

「恵み」は、値しない者に対する神のあわれみ深い神の愛のおこころから生じる救いの働きかけのことです。パウロは、1~3節と4~8節を対照的に描くことによって、救いがいかに神の大きな恵みによるかを示しています。

私たちはその救いを「信仰によって」受け取っています。救いは「ただ恵みによるのですから」、私たちには少しも誇るところはありません。私たちは、神の恵みを、悔い改める心をもって受け取りました。

こうしたことが起こったのは聖霊が働いてくださっているからなのです。

(6月19日礼拝)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとりの助け主

ヨハネの福音書14章9~21節

十字架を目前にして、主イエス・キリストが語りはじめられたみことばを聞いていた弟子たちに不安が募ってきました。そのような弟子たちに、主は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と語りかけられ、続いて慰めのメッセージをお語りになりました。そのなかでも「もうひとりの助け主」のお約束は最大の慰めになるはずでした。しかし、その慰めを経験することになるのはペンテコステの日でした。

主イエス・キリストのほかに「もうひとりの助け主」ということはだれのことでしょうか。もちろん、それは「真理の御霊」のことです。弟子たちは主とともにおらせられるためにみもとに召され、主に従ってまいりました。しかし、もう間もなく、主は「わたしの父」と言われる方のみもとに帰って行かれます。弟子たちには、その意味するところが何であるかがよくわかりません。心が騒ぐばかりです。そうした弟子たちに約束されたのが御霊の賜物です。「助け主」という言葉は、慰め助けてくださるために傍らにいてくださるように召される方という意味です。これから後、聖霊が弟子たちとともにおり、内にいてくださるために遣わされようとしていたのです。

「もうひとりの助け主」の臨在は、祝福の中でも最大の祝福である神の臨在をもたらします。主イエス・キリストは「わたしは父におり、父が私におられる」(10、11節)とお語りになったばかりでなく、「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることがあなたがたにわかります」(20、21)とまでお語りになりました。神の臨在と交わりの祝福が約束されました。このすばらしい祝福が、いま私たちに与えられています。

「もうひとりの助け主」が私たちとともにおられ、私たちのうちにおられてしてくださっているお働きの一つは主イエス・キリストを私たちに証し、私たちを真理に導いてくださることです(26、15:26)。

だれでもこのような祝福にあずかることが出来るわけではありません。主は、「わたしの戒めを保ち、それを守る人はわたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、私自身を彼に現します」(21)と語っておられます。主のみことばに従順であること以外に祝福を見出だすことはできません。

(6月12日礼拝)

 

 

キリストと教会

エペソ人への手紙1章20~23節

私たちの主イエス・キリストは、十字架につけられて私たちをお救いくださったばかりでなく、神の全能の力によって死者の中からよみがえらせられ、天に昇り、父なる神の右の座についておられます。教会はこの方と不可分の関係にあります。この方を離れて教会は存在しません。

主イエス・キリストを教会にお与えになったのは神です。「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを教会にお与えになりました」(22節)。

神は福音を宣べ伝える人を召して福音を宣べ伝えさせ、福音を聞く者のうちに信仰を生じさせ、信仰によって救われた人を教会に加えられました。その教会はキリストのからだであり、キリストが教会のかしらです。

キリストと教会の結びつきは、接着剤や釘で結合されたようなものではなく、木と枝のような関係にあります。主は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)と語っておられます。神はいっさいのものをキリストの足の下に従わせなさいました。キリストはいっさいのものの上に立つかしらであられます。その至高の主が教会のかしらです。

キリストの豊かさは教会の豊かさとなっています。教会は、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(23節)。「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」(コロサイ1:19)なさいました。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちた御性質が形をとって宿っています。そして、あなたがたはキリストにあって満ち満ちているのです」(コロサイ2:9、10)。キリストは「恵みとまことに満ちておられ」、私たちはみなこの方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1:14、16)のです。

神のみこころは、教会を通して、「すべてを満たしてくださるキリストを前面に現すこと」です。周囲の方々がキリストを見、キリストの豊かさを見るのは教会を通してなのです。

「教会はキリストのからだ」ですから、教会のいのちは、木であるキリストからあたえられ、生き生きと働きます。私たちのからだが頭(脳)の指令によって動き働くように、教会はかしらであるキリストのみこころに従って行動します。

教会はキリストのからだであり、教会のかしらはキリストです。ですから、キリストが教会によっていつもあがめられているのです。

(5月29日礼拝)

 

 

キリストのうちに働かせて

 

エペソ人への手紙1章20~23節

私たちが目を離さないで歩んでいる主イエスは、私たちを罪から救うために十字架につけられた方、私たちとともに歩んでくださるあわれみ深い方というだけではなく、死人のうちよりよみがえらせられ、天に昇り、御父の右に座しておられる方です。それは神の全能の力の働きによるとパウロは語っています。

1、神の全能の力の働きは「キリストを死人のうちよりよみがえらせ」ました。聖書はキリストのよみがえりを描写する場合には「よみがえられました」と述べていますが、使徒たちがキリストを宣べ伝える場合には、そのほとんどの場合、「よみがえらせられた」と語っています。使徒2:24、34、3:15、4:10、その他。キリストは神の全能の力によって、死人のうちよりよみがえらせられたのです。

2、私たちは使徒信条で、主は「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」と告白していますが、それは神の全能の力の働きによるのです。ですから、パウロは、「天上においてご自分の(父なる神の)右の座に着かせて」と述べているのです。マタイ26:64、ヘブル1:3、8:1、10:12、12:2、Ⅰペテロ3:22、ピリピ2:9~11、その他。

イエス・キリストが死人のうちよりよみがえらせられ、父なる神の右の座に着かれることは旧約聖書に預言されていたことでした。詩篇第2篇、第8篇、第110篇など。

3、イエス・キリストは「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられるすべての名の上に高く」おかれた方です。「また、神はいっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしら」とされました。「神はキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(ピリピ2:9~11)。

この方が私たちの救い主、主キリストです。主は教会のかしらです。この方にあって、私たちは復活の力にあずかることができます。また、主イエス・キリストは「神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:34)。主は恵み深い救い主、私たちのために十字架につけられた方ですが、同時に万物の主、至高の権威をお持ちの方です。恐れつつみ前にひざまずき、主を賛美しましょう。

(5月22日礼拝)

 

 

心の目の開眼

 

エペソ人への手紙1章15~23節

パウロの祈りが続きます。祈りは、あらゆる祝福が主なる神から来ることを告白する営みです。また、主は私たちを祝福してくださるために祈りを求めておられます。

パウロが前回に続いて祈っていることは、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることが出来ますように」という、驚くような内容です。こうしたことを、主なる神が私たちに備えておられるのです。

主は、私たちがこの偉大な賜物を知るように願っておられ、私たちの「心の目」を開いてくださいます。そのとき私たちは偉大な神の賜物をはっきりと知ることが出来るようになるのです。もともと私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」(2:1)であり、「暗やみの中にすわっていた」(マタイ4:16)者です。そのような私たちに、主イエス・キリストは「光として」来て下さいました。主は私たちを照らす光です。主は「心の目」、私という存在の中心を照らし、神の賜物が何であるかを悟らせてくださいます。

光に照らされるとき、「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」をはっきり知ることが出来るようになります。この栄光に富んだ相続が確かなものであることは、保証として与えられている聖霊によって知ることが出来ます。それは確かな希望の根拠です。

主は私たちにもうひとつのことを知らせたいと願っておられます。それは「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」ということです。「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」がどんなに優れた力であるかを表現するために、パウロは可能なあらゆる言葉を連ねています。パウロ自身、例えばルステラで石打に遭いましたが、生かされる力を経験しました。神の力はキリストによって明らかにされたよみがえりの力です。この力が信じる私たちに働いているのです。

(5月8日礼拝)

 

 

よみがえられたからです

マタイの福音書28章1~20節

イースターを迎えました。クリスマスと同様、イースターは喜びの日です。しかし、クリスマスもイースターも十字架なしに考えることはできません。イースターは、王として処刑された主イエス・キリストがよみがえられた記念の日です。

この日の出来事を通して見る第一のことは、人間の理解力に限界があることです。主がよみがえられた早朝、「マグダラのマリヤとほかのマリヤが」墓を見に来ました。他の福音書を見ると、香油を購入して墓を訪ねたと記されています。イエス・キリストがよみがえられたことを信じて墓を見に来たわけではありませんでした。17節を見ると、弟子たちが「イエスにお会いしたとき」、「ある者は疑った」のです。「イエス・キリスト」が死人の中からよみがえらせられることは、あらかじめ告げられていましたが、信じることはできなかったのです。ここに私たちの限界があります。

そうした弟子たちのために、信じることが出来るように、神が介入してくださいました。神は御使いを遣わされたのです。ちょうど、処女マリヤから救い主イエス・キリストがお生まれになるときに、御使いが遣わされたように、墓を訪ねたマリヤたちに御使いが遣わされました。彼女たちはその聖なる輝きを見て、恐ろしさのあまり震え上がります。御使いは彼女たちに、墓は空であり、「イエスが死人の中からよみがえられたこと」を告げました。

また、その時が来たときに弟子たちが信じることが出来るように、十字架とよみがえりを予告しておられました。16:21、17:23、20:19、26:32。

そればかりではありません。実に、よみがえられた主が彼女たちに出会ってくださったのです。彼女たちは、イエス・キリストが死人の中からよみがえられたことの最初の証人となりました。

イエス・キリストは墓にはおられません。よみがえられたからです。よみがえられた主は「天においても、地においても一切の権威が与えられています」(18節)。王としておいでになった方が、王として処刑されましたが、今や全権を持つお方としてよみがえらせられています。この主イエス・キリストは、「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と語っておられます。

(4月24日礼拝)

 

 

王の処刑

マタイの福音書27章33~56節

今なお東日本大震災のために多くの方々が避難生活、不便な生活を強いられている中で受難週を迎えました。私たちのために、理解しがたいほどの苦しみを受けられたイエス・キリストの十字架に心にとめさせていただきたい。

マタイは、「イエス」が十字架刑に処せられるに至った中にも、「イエス」が王でありキリストであることを強調しています。大祭司が「あなたは神の子キリストなのか」と問うたとき、主はそれを否定することなく、「あなたの言う通りです」とお答えになり、さらに続けて「今から後、人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲に乗ってくるのを、あなたがたは見ることになります」(26:63、64)と言われました。総督ピラトが、「あなたはユダヤ人の王ですか」と問うたとき、「その通りです」(27:11)とお答えになりました。そのほかピラトの妻のことば(27:19)にも、「イエス」がただの被告人でないことが証しされています。

さばきを受け、処刑されたのは実に王なる神の御子、主イエス・キリストでした。当局者たちが告訴したのは、「イエス」が犯罪人であったからではなく、「ねたみによる」(18節)ものでした。彼らは初めから「イエス」を死刑に処することを決めつけて告訴したのです(26:59)。そのためには、十戒で禁じられていたはずの偽証すらも厭わなかったのです。その結果、王なる主イエス・キリストは、あざけられ、ののしられ、鞭打たれ、十字架刑に処せられました。

こうして「イエス」は十字架刑に処せられましたが、私たちが忘れてはならないことがあります。そのひとつは、イエス・キリストはご自分からいのちをお捨てになったのです。「だれもわたしからいのちを採った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。私にはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」(ヨハネ10:18)と主は語っておられます。もうひとつ、大切なことは、イエス・キリストは「多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与えるため」(マタイ20:28)であったということです。

イエス・キリストの処刑は王の処刑でした。しかも、このことによって私たちに信仰による救いの道が開かれたのです。

(4月17日礼拝)

 

 

慰めの神

第2コリント1章1~7節

伊藤先生を京都西教会にお送りしての礼拝です。新任のご挨拶も兼ねましてよろしくお願い致します。現在日本は東日本大震災の復興の途上にあります。被災地では震災の傷跡が今も生々しく残っています。震災も含めて、人生に起こる様々な困難の原因はどこにあるのだろうと私たちは考えます。

試練や困難は私たちの罪を指摘し注意を喚起させる戒め、又は困難を通して私たちは訓練されている、とも考えられます。どちらも意義がありますが、苦境にある人々にとっては受け入れ難い場合があります。愛する人々を失い苦しみ痛んでいる最中に、それは罰だとか、実は素晴らしいことなのだと言われても、納得し難いばかりか怒りすら抱いてしまうでしょう。

 苦難がどこから来るのか、その原因は一様ではありません。今日でも、全ての人が納得できるような回答はされていないというのが実際だと思われます。

 ただ、信仰者にとって聖書に明らかにされていることをお話します。神は苦難の中にある信仰者を慰めてくださる方だということです。Ⅱコリントの書き出しは「慰め」から始まります。著者のパウロは教会の問題を指摘しましたが、彼も教会の問題を共に悩み苦しんでいました。パウロは「苦しみ」と言う時「あなた(がた)の」ではなく「私たちの」と言っています。信仰者が苦しむ時は、パウロもまた同じく苦しみ、それは慈愛に富む主キリストと同じ姿でもあります。

 「慰めの神」(3節)である主を3つの点で聖書から見てみます。

① 神は「どのような苦しみの時にも」慰めてくださる。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」(4節)

② いつも共にいてくださる。

「慰め」の語源は「ある者の傍らに呼ばれたもの」という意味です。キリストが私たちの傍らに立ち励ましを与え、苦難を共にして下さいます。

③ 苦しみの時に力を与えてくださる

「私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(6節)

苦難の中に放置されるのではなく、必要な力を与えてくださいます。苦難と悲しみを受け止め、現実に対処する力を与えてくださいます。憐れみ深い主に感謝します。(池田)

(4月10日礼拝)

 

 

聖霊の証印

エペソ人への手紙1章8~14節

この世には見られないこの上なき恵みが繰り返し強調されているこの個所にもう少しとどまっていたいという思いでいっぱいです。そこで、この個所に述べられている神の恵みを、通常私たちがどのようにしてキリスト者になったか、その過程をたどりながら振り返ってみることにいたします。

恵みにあずかる最初の段階は、「真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたこと」(13節)でした。このことは「この方(主イエス・キリスト)にあって」行われました。「キリスト・イエスにある」とか、「この方にあって」という表現はこの手紙の特徴であって、何度も繰り返し用いられています。福音が宣べ伝えられることも、それを聞いて信じることも、「この方にあって」なされています。神は「この方にあって」ご自身のことを啓示され、私たちを愛して救いの福音を聞かせてくださったのです。私たちは、「この方にあって」その真理のことば、救いの福音を聞いて、信じたことによって救われました。私たちが受けている神の恵みは「この方にあって」与えられているのであって、主イエス・キリストの外に恵みはありません。

「この方にあって」与えられている救いは、「その血による贖い」「罪の赦し」です(7節)。また「この方にあって」「御国を受け継ぐ者と」(11節)なりました。今この世にありながら御国を味わう者としていただいています。なぜなら、「約束の聖霊をもって証印を押され」(13節)ているからです。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」(14節)。私たちは、主イエス・キリストが天に帰って行かれて、この世にさびしく残されているのではありません。「もうひとりの助け主」である聖霊が遣わされ、その方が私たちとともにおられ、私たちのうちにおられるのです(ヨハネ14:16~18)。

このようにして、今私たちは比類のない恵みにあずかっていますが、この救いの恵みのが二千年前に創出されたのではなく、「世界の基がおかれる前から」(4節)私たちを愛する神のおこころにあったのです。パウロはこのことを私たちに伝えたかったのです。救われた当初、ぼんやりしていたことがここではっきり見えるようになりました。これも「聖霊をもって証印を押され」ていることによってなのです。実に恵みの栄光です。

(4月3日礼拝)

 

 

 

 

災害からの教訓

ルカの福音書17章20~37節

このたびの東北関東大震災で多くの方々が被災されました。祭司として召されているキリスト者として、神のみこころにそった祈りをささげたいと願っています。私たちの教団として、本日(3月20日)を「インマヌエル・祈祷の日」と定め、全国の教会で祈ることになっています。私たちも被災者の方々のことを思い、心を合わせて祈りましょう。

災害に際して、伝道者の書7:17、ルカ13:1~5、10:25~37、17:20~37、マタイ7:12などが心に浮かんできています。災難に遭遇した人々がそうでない人々よりも悪いのではなく、だれであっても悔い改めるのでなければならないこと、被災者の方々は私たちの隣人であること、自分にしてもらいたいことはほかの人にもしてあげること、こうしたことが非常事態に際して私たちが心がけなければならない聖書の教え、主のみこころです。

ルカの福音書17:20~37では、普段どのような心構えで生活すべきかを教えています。「神の国」の到来、私たちの主の再臨は、ユダヤ人ならずともキリスト者として召されている私たちの関心事でもあります。いつその時が訪れるのか、私たちをその時のためにどのような心構えでいなければならないのか、特にこの度のような災害が発生したときに振り返って考えてみる必要があります。

主は二人の人物の時代に起こった出来事を取り上げて、私たちは今のままでよいのかと問いかけておられます。

ノアの時代に、「人々は食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりして」いましたが、突然洪水が襲いました。またロトの時代に、人々が同じように「食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが」、突然火と硫黄が天から降ってきて、すべての人を滅ぼしてしまいました。

そうした突然の災難の中で、ノアとその家族、ロトとふたりの娘たちは難を逃れました。彼らはみことばに従って行動したから救われたのです。

ノアの時代とロトの時代に人々がしていたことは今日の私たちがしていることと全く同じです。食事をし、結婚し、売り買いをし、家を建てたりすることなど、だれでもしているごくありふれた日常生活そのものです。しかし、個々の致命的な欠陥がありました。神への敬虔な心、信仰です。ノアは信仰の人でした。常識を超えたことであっても、主のみことばに従い、大きな船を建造しました。ロトには、主に応答する信仰がありました。

私たちの国に必要なのはそのような敬虔と信仰です。この非常事態に際して、国を挙げて、向きを変えて主を信じる時となるように祈りましょう。

(3月20日礼拝)

 

 

 

 

 

 

 

私たちの主イエス・キリストへの賛美

 

エペソ人への手紙 1章3~9節

パウロは、挨拶に続いて神を賛美しています。賛美に続いてその理由が述べられていますが、その内容は私たちの誇りを完全に打ち砕き、神への賛美に導きます。

「ほめたたえられますように」という言葉は神にのみ帰せられている言葉です。ほめたたえられるべき方は神のみです。特に、「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださっていることを知れば知るほど神への賛美はあふれてまいります。神は、「天にあるすべての霊的祝福をもって」地にいる私たちを天に結び付けておられます。

パウロは神を「私たちの主イエス・キリストの父なる神」と呼んでいます。そのように呼びかけて祈る方々がおられますが、何とも言えない恵みを感じさせられる呼び名です。神は御子イエス・キリストを通して私たちにご自身を啓示しておられます。「御子は見えない神のかたち」であります(コロサイ1:15)。主イエス・キリストは、「すべてのものがわたしの父からわたしに渡されています。それで、父のほかには子を知るものがなく、子と子が父を知らせようと心に定めた人のほかはだれも父を知る者がありません」と語っておられます(マタイ11:27)。私たち日本人には独特の神観念があり、その中で育ってまいりました。その神観念から私たちを救い出してくださるのは「私たちの主イエス・キリストの父なる神」です。いま私たちは御子を知ることによって神を知る恵みの中に生かされています。

賛美されるべき私たちの主イエス・キリストの父なる神の恵みは、私たちの誇りを完全に打ち砕き、神への賛美をあふれさせます。第一に、私たちを神の「御前で聖く傷のない者にしようとされたのは」神ご自身であり、しかもそれは「世界の基の置かれる前から」、私たちの主イエス・キリストにあって選んでおられたことによるのです。神の救いのご計画に参画する要素は私たちには全くなく、ただ神の恵みによって救われたのです。

私たちが救われているのは、ただ神の「みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めて」おられたからなのです。

神の選びと定めが実現されたのが御子の血による贖い、罪の赦しなのです。

こうしたことを知れば知るほど、「神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光」をほめたたえずにはおれなくなります。私たちは御子のあってその恵みの中に生き続けているのです。

(3月13日礼拝)

 

 

 

2024年12月8日     小早川由紀子    クリスマスコンサート   開場 午後1:30             開演 午後2:00

墨染ゴスペル             クリスマスライブ2024    12月1日(日)                        開場 午後3:30                開演 午後4:00

 2023年12月17日

   浜岡典子

クリスマスコンサート

開場:1:30 開演2:00

 

墨染ゴスペル2023    12月3日(日)午後4時

2022年12月18日   クリスマスコンサート

(会場+ライブ配信予定)

午後1:30 開場

午後2:00 開演

コンサートライブ配信

「インマヌエル京都」でYouTubeを検索ください。

2021年12月25日クリスマスコンサート

スウェーデン宣教師 東京交響楽団首席チェリストを30年以上されたボーマン先生を迎えてのコンサートです。

(会場+ライブ配信予定)

毎年のクリスマスコンサートは、今年は配信になります。「インマヌエル京都」で検索ください。12/13午後2時、伏見教会からライブ配信します。

ーーーーーーーーーーーー

 

3月よりライブ配信開始!

 日曜朝10時半より

12月15日(日)

午後2時~安田美穂子クリスマスコンサート

透き通る歌声を、お子さんとご一緒に、お楽しみください

9/8(日)午後1時~「パクパクキッズ」おいしくって、心を教えられるパクパクに、親子でどうぞご参加ください!

8月2日

教会学校のデイキャンプです。今年は京都YMCAリトリートセンターです。

7月28日(日)夕方

6時から

西教会の屋上夕涼み会です。

 

7月14日(日)12:30~ 子供スペシャルちょっと早い夏 流しそうめんスイカり」 おなかも心も一杯、聖書のお話やゲームで、楽しみます。 ご家族でどうぞ!

 

5月12日(日)伏見桃山城公園で野外礼拝です。

4月28日(日) 特別礼拝午前10時半

青年キャンプで活躍中の細田先生が来てくださいます。この日は京都西教会風のワーシップソングの多い礼拝です。

4月21日 (日)PM1終活・結婚に関する多くの本を出されている水野健先生をお迎えしての終活セミナー。 大切な締め括りを、豊かなものにしたいと願い開催されます。ご家族で、どうぞご参加下さい。

3月24日(日)は大村智康先生(笹沖聖約教会)を迎えての礼拝と西日本豪雨でのボランティア活動を伺います

12月23日(日)西教会のクリスマスに参加します。今年は人形劇とユース讃美、男性カルテットでの参加です。午後2時~みなさんもどうぞ!

12月16日(日)午後2時~ サムエルクリスマスコンサート

12/9

12時半

大人も子供も楽しめる教会のクリスマス

古い伝統的なクリスマスをご一緒しませんか

墨染ゴスペル2018今年で13回目の地域密着ゴスペルライブ(入場無料)

日時:12月2日(日)
開場:16時30分
開演:17時(19時まで)

10月7日(日)

今月のこどもスペシャルは、「プラバン&せっけんデコパ!」です。親子でどうぞ!

7月8日(日)12:30~ 子供スペシャルちょっと早い夏体験「流しそうめんスイカ割り」 おなかも心も一杯、聖書のお話やゲームで、楽しみます。 ご家族でどうぞ!

3月18日(日)午後1時から、地域の子供たちと一緒に子供スペシャル「たこ焼きパーティー」をします。おなかも心もいっぱいです。

What's New

1月14日(日)昼12時半~餅つき大会

大人も子供も参加費無料です。

12月24日(日)

クリスマスに音楽の贈り物

開場13:30 開演14:00

小堀英郎さんのやわらかな調べを皆さまに贈ります!

12月3日

  (日)

午後5時~

「墨染ゴスペル」

 

今年も地域のグループをはじめ、関西からいくつものグループが素敵な歌声を聞かせてくださいます。  (入場無料)

10月15日(日)ホームカミング礼拝

富山から伏見教会出身の高桑先生が来てくださいます。

 

9/10(日)

午後1時

パクパクキッズ

今年も楽しみます!

パフェの食べ放題、そしてステキな讃美歌に神様のお話です。

3月26日

ソン・ソルナムフルートコンサート

pm1:30開場、2:00開演

12月23日

向日かおりクリスマスコンサート‼

待ち遠しいです。

10月23日

ホームカミング礼拝です。

伏見教会出身の渡辺芳子先生が金谷教会から来てくださいます。そのピアノの音色は私たちを神様に近づけてくれます。

5月15日

野外礼拝

太陽の下でミニ運動会のような一日を京都西教会と一緒に過ごしました

4月24日(日)

ームカミング礼拝

伏見教会から神学校に行かれた先生方が多くおられます。その先生方を母教会にお招きしての礼拝がもたれました。第一弾は宇都宮教会の山田勢津子先生。その優しい、でも芯のある姿に50年の年月がすぐに埋められました

3月26日(土)

3月26日

土曜日の午後、ケニヤのセントアンドリューススクールから京都でのコンサートをすることになりました。指揮者が京都出身の方のため、教会を会場に、午後1:30開場   2:00開演です。

 アフリカの音楽とゴスペルを楽しみましょう!

2/14(日)午後プログラム

12/23 今年のクリスマスコンサートは、ステキなゲストを迎えます。

『一粒のたねから』予約注文受付中!

伏見教会員で「社会福祉法人ミッションからしだね」の坂岡隆司理事長がこの度、本を出版しました。

精神障がい者の自立・就労支援を通して経験した様々の体験の珠玉集。

アマゾンで予約注文受付中。ぜひご一読下さい!

教会西側入口

当教会は以下の活動に協賛しております。

社会福祉法人ミッションからしだね
社会福祉法人ミッションからしだね
     湖 風 館
     湖 風 館

〒612-0052

京都市伏見区

深草墨染町40-1

電話(075)645-9035

FAX(075)645-9150