マタイ15章「ツロの母親」
「子犬に投げてやるのは良くないことです。」(26)
マザーテレサの言葉に「人からの屈辱を明るく受け止めることを通して謙虚さを学ぶ」というのがありました。彼女に言わせると、最高のレッスン料を払っても良いほどのものを受けているのです。それはイヤなことでは無く、最高のことなのです。『しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。」』
イエス・キリストもこの後、神のひとり子が罪人として屈辱を受け、言われます。『私に従ってきなさい』と。
マタイ11:29「わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」28節「すると、彼女の娘はその時から直った。」
マタイ書14章「信仰の現実化」
「弟子たちは群衆に配った」(19)。仕事と信仰は別、と思ってた人がタクシー会社に入社。サービス業が分からず、お得意さんのノンクリスチャンのホテル支配人にはいつも怒られ、頭を下げて「教えてください」と言った。まず「自分がサービス業に入った原点から話そう」と戦後、母と列車に乗ろうとしていたら、人に押しのけられ乗れず、そこに米兵が真っ赤な顔をして走ってくる。米兵は押しのけた日本人を下ろし、こちらを見て「プリーズ」とやさしく言った。「これが人のために仕えるということか」大人になり、ホテル業をするには、アメリカに行って学ばなければと。そこで教えられたことは「この人たちの考えの根底には聖書がある」と、恥ずかしかった。
マタイ書13章「奥義」
「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが…」(11)
奥義、コロサイ1:27には「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」とあります。「岩から出る蜜」の8月30日「奉仕の源泉」を読みました。終わりの二行に「熟省しよう」と締めくくられていましたが、さすがに反省させられました。「キリストのために働く人は多いが、キリストが内におられて働く人が少ない。」私たちはこの奥義を内に宿している者、かたじけなく思います。
マタイ書12章「安息日」
「人の子は安息日の主です」(8)横浜から20歳の青年が沖縄に来ました。先月洗礼を受けて、すぐ日本縦断自転車の旅、西日本教会巡り。新潟、佐渡、北陸、京都、四国、徳山、別府、那覇、東風平。この旅で自分は本物のクリスチャンになったそうです。一人の不安、しかしイエス様がいてくださる安心感。「クリスチャンになると案外人生観変わるよ」と新潟の青年に言われ、本当にそうだと思った。このまま建築の学びするのではなく、いつか聖書を学びたい、できれば神学校にも。信仰に入ったのは予備校帰りに駅を降りると大きな十字架が見え、合格したら教会に行こうと思い、春に初めて行ったと。私たちには、人生の旅路の為に「安息日」があります。
マタイ書11章「バプテスマのヨハネ」
バプテスマのヨハネは、ヘロデ王の不正を糾弾し、獄中生活を送っていました。そして殉教の死をとげようとしていますイエス様を救い主と信じていましたが、不安を覚えていました。イエス様に『女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません』と言われた人物です。信仰の優れた人に不安はない、普通そう感じます。しかし現実は違います。ですが彼らの違うところはその不安を、主のところに持って行ったことです。普通世の中では、何かあったらその解決方法を探ります。しかし信仰の世界では主の所に行く。これが解決です。
バプテスマのヨハネは、ヘロデ王の不正を糾弾し、獄中生活を送っていました。そして殉教の死をとげようとしていますイエス様を救い主と信じていましたが、不安を覚えていました。イエス様に『女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、 ひとりもいません』と言われた人物です。信仰の優れた人に不安はない、普通そう感じます。しかし現実は違います。ですが彼らの違うところはその不安を、主のところに持って行ったことです。普通世の中では、何かあったらその解決方法を探ります。しかし信仰の世界では主の所に行く。これが解決です。
今日もすべての課題のマスターキーである、主のもとに行きましょう。
マタイ10章「ただで与えよ」
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8)。ただで受けた…確かにそうです。救いも、自分で教会に行ったわけではなく、自分の性格や、才能も自分で努力したわけではありません。数年間100人近い中高生キャンプの責任をもったことがあります。少し重く困っていました。今年限りで止めようとも。しかし、いないのです。先輩の先生は大病、それなのに参加してくださる。別の先生も前月軽い脳梗塞と…。楽器する人も無い。そんな時前日にピアノを弾きますと急遽、仕事を休んで参加してくれた人がいて、励まされました。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」
もう一年やらせて頂こうと思いました。あなたがただで受けたものはありますか?
マタイ9章「中部の人のいやし」
「イエスは彼らの信仰を見て」(2)。信仰(=信頼)は見えます。
ある日、クレーン車と工事人の息のあった仕事を見ました。工事人の方は後ろの重機が機材を動かすのに目もくれず、下ろすべき場所を指示しています。一度も後ろのクレーン車を見ることなく…。その二人の関係に信頼を見ました。信頼はどのようにして増すのでしょう。年に一度工事現場で会っても信頼は生まれません。毎日の積み重ねが信頼になります。良くお会いし、良く話し、交わりましょう。
マタイ8章「枕するところもない」
沖縄で一緒に伝道したプリンセル宣教師の部屋に入って普通の宣教師は、ああではないと思いました。古い古いお風呂にトイレ、そして質素な生活。地上の富を求めていない。主はこの言葉を、負け惜しみで言ったのではありません。「私にはそれで十分、父がすべてを知り、備えてくださるから」そのような信仰がありました。そこには暴風雨のときでも、ぐっすり眠ることができる平安でした。それほど価値のある物を、地上の物に目もくれない程の物を、与えられているのがクリスチャンです。「地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」 ヘブル書11:13
食い違い
マラキ書1章1~8節
マラキはハガイやゼカリヤから約100年後に預言活動した旧約聖書最後の預言者です。ゼルバベルの指導のもと、ハガイとゼカリヤに励まされて神殿再建工事が完成し、神殿を中心に礼拝がささげられるようになりましたが、それは必ずしも主に喜ばれる礼拝とはいえませんでした。
単に礼拝する民だけでなく、礼拝を指導していた祭司たちまでもが主のみこころにふさわしくない状態になっていました。それでも主はご自分の民を非常に愛していました。
そこで、主はハガイを通して、間違いに気づいて主に立ち返るように語っておられます。民と指導者たちは主との間に大きな食い違いがあったにもかかわらず気付きませんでした。
主は預言者を通して、その食い違いに気付かせてくださっています。主の民は主との間にどのように食い違っていたのでしょうか。節によると、主は「わたしはあなた方を愛している」と言われましたが、民は「どのようにあなたが私たちを愛されたのですか」と問いかけています。
現状がおもわしくない状態にある時、主が愛していてくださることが分からなくなることがあります。節以下を見ると、主は「どこにわたしへの恐れがあるのか」と問いかけ、「わたしの名をさげすむ祭司たち」と語りかけておられますが、祭司たちは「どのようにして私たちがあなたの名をさげすみましたか」と聞き返しています。
そのほか結婚に関して、主を煩わしていることに関して、神に帰ることに関して、神のものを盗んでいることに関して、かたくなであることに関して、などに、人々と主との間にどんなに大きな食い違いがあるが具体的に語られています。
主との間に大きな食い違いがあるにもかかわらず、それに気付いていないというのが問題なのです。私たちは主との間に食い違いはないでしょうか。食い違っているかどうかは、みことばを謙虚に聞く人々に主が教えてくださいます。
気付かせられたならば、悔い改めて主に立ち返るように祈ることです。私たちの歩むべき道は私たちの為にとりなしておられる贖い主イエス・キリストです。
(2012年7月22日、礼拝)
「食い違い」
マラキ書1章1~8節
マラキはハガイやゼカリヤから約100年後に預言活動した旧約聖書最後の預言者です。ゼルバベルの指導のもと、ハガイとゼカリヤに励まされて神殿再建工事が完成し、神殿を中心に礼拝がささげられるようになりましたが、それは必ずしも主に喜ばれる礼拝とはいえませんでした。
単に礼拝する民だけでなく、礼拝を指導していた祭司たちまでもが主のみこころにふさわしくない状態になっていました。それでも主はご自分の民を非常に愛していました。
そこで、主はハガイを通して、間違いに気づいて主に立ち返るように語っておられます。民と指導者たちは主との間に大きな食い違いがあったにもかかわらず気付きませんでした。
主は預言者を通して、その食い違いに気付かせてくださっています。主の民は主との間にどのように食い違っていたのでしょうか。節によると、主は「わたしはあなた方を愛している」と言われましたが、民は「どのようにあなたが私たちを愛されたのですか」と問いかけています。
現状がおもわしくない状態にある時、主が愛していてくださることが分からなくなることがあります。節以下を見ると、主は「どこにわたしへの恐れがあるのか」と問いかけ、「わたしの名をさげすむ祭司たち」と語りかけておられますが、祭司たちは「どのようにして私たちがあなたの名をさげすみましたか」と聞き返しています。
そのほか結婚に関して、主を煩わしていることに関して、神に帰ることに関して、神のものを盗んでいることに関して、かたくなであることに関して、などに、人々と主との間にどんなに大きな食い違いがあるが具体的に語られています。
主との間に大きな食い違いがあるにもかかわらず、それに気付いていないというのが問題なのです。私たちは主との間に食い違いはないでしょうか。食い違っているかどうかは、みことばを謙虚に聞く人々に主が教えてくださいます。
気付かせられたならば、悔い改めて主に立ち返るように祈ることです。私たちの歩むべき道は私たちの為にとりなしておられる贖い主イエス・キリストです。
(2012年7月22日、礼拝)
主の霊によって
ゼカリヤ書4章1~14節
隣接地を購入するかどうかを検討中ですが、最終決定は8月26日に予定されている臨時教会総会でなされます。いずれにせよ、こうした問題に取り組む場合、どのような心構えでいることが望ましいかを、みことばから学んでおくことが大切です。
ゼカリヤはハガイとほぼ同時代に活躍した預言者であり、滞っていた神殿再建工事を開始するようにハガイとともに指導者や民を激励しました。特に、後半では救い主の約束を預言し、この上ない希望を与えています。
今回は前半の預言の内容の幾つかをかいつまんで紹介し、「わたしの霊によって」と語っておられる主のみことばに心を留めたいと願っています。
1章では、荒廃したちに住む民に、主が激しく愛しておられると告げています。主は、「わたしはエルサレムとシオンをねたむほど激しく愛した。・・・わたしはあわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建てなおされる」(14、16節)と語っておられます。
2章では、エルサレムは荒廃したままでしたが、繁栄の約束を告げています。「エルサレムはその中の多くの人と家畜の為、城壁のない町とされよう。しかし、わたしがそれを取り巻く火の城壁となる。―主の御告げ―私がその中の栄光となる」(4~5節)と主が語っておられます。
3章では、サタンに訴えられていた大祭司ヨシュアの罪を主が取り除き、真の奉仕・礼拝の為に聖なる者とされて仕えることが出来るように整えられています。私たちが主に仕えて行く上でとても大切な備えです。
4章に入ると、妨害の為に神殿再建工事が滞っていた民に、主の業は権力や能力によってではなく、主の霊によってなされると告げられています。
当時、捕囚となっていた地から帰還してきたとはいえ、神殿再建工事の為に権力も能力もありませんでした。
敵対する者たちから妨害されると、工事は中断せざるを得なくなりました。主の霊によって主のわざが成し遂げられようとしていました。
私たちには権力も能力もありません。しかし、「わたしの霊によって」とおっしゃる主の霊によって、ことが進められていくのです。永遠に価値ある奉仕は主の霊によってのみ進められていきます。
(2012年7月15日、礼拝)
ハガイのメッセージ
ハガイ書1章1~15節
紀元前538年ごろ、捕囚から帰還した人々によって神殿再建工事に取り掛かったのですが、妨害があって工事が中断されてしまいました。そこで、主はハガイとゼカリヤというふたりの預言者を遣わして、民を勇気づけ、神殿再建工事を再開させました。
再建工事は容易なものではありませんでした。民は帰還したものの、エルサレムは荒廃したままであり、経済的に苦しい状態にありました。
さらに、捕囚を免れて残留していた人々とサマリヤ人たちが神殿再建工事を妨害したのです。こうした状況にある人々を励ますことが出来るのは主のことばだけでした。
そうした人々に語ったハガイのメッセージはどのようなものだったのでしょうか。G.C.モルガンは、当時の主の民が克服しなければならなかった課題を四つ挙げています。
それは、①間違った自己満足、②間違った不満、③間違った期待、④間違った恐れです。ハガイの使命は、そうした間違っている民を勇気づけ、神殿再建に取り組ませることでした。
間違った自己満足というのは、自分たちの生活に満足しきっていて、神殿再建工事のことを考えなくなってしまっていたことです。主を礼拝する思いが薄れてしまったのです。
そこで、ハガイは、もう一度民の思いを主に向けさせました。 間違った不満というのは、紀元前586年に破壊されてしまったエルサレム神殿と比較して、再建されようとしていた神殿がかなり見劣りがすることに対する不満でした。
しかし、ハガイは「後の栄光」がどんなにまさるものであるかを告げて民を励ましました。 間違った期待というのは、悔い改めて道徳的に改善されたならば、直ちにご利益があると期待することです。
主によって備えられている祝福を忍耐を持って待ち望むべきです。 間違った恐れとは、妨害する者たちを恐れることでした。
みこころを行う道を進む行く手にどんな困難が待ち構えていようと、恐れる心配はありません。主がともにおられるからです。
私たちの現状は、間違った自己満足、間違った不満、間違った期待、間違った恐れを生じさせる要素があるかもしれません。しかし、主を礼拝することを大切に歩んでいきたいと願っています。
(2012年7月8日、礼拝)