年老いても
詩篇71篇
謝恩日聖日にちなみ、詩篇71篇のみことばをご一緒に心に留めたいと思います。作者は年老いていると思われますが(9、18節)、この詩篇の中に流れている信仰は私たちに慰めを与え、信仰を励ましてくれます。
詩篇の作者は信頼の人、祈りの人でした。信仰は主に信頼することを特徴としています。作者は主に身を避けています(1節)。主を「巌」「とりで」「望み」「信頼の的」「力強い避け所」と告白し (1、3、5、7、14)、いつでも主に身を避けています。また、主に対して「あなたの義、あなただけを心に留めましょう」(16節)と告白しています。これが彼の生涯の特徴でした。生まれたときから老年にいたるまで、主を避け所とし、主にのみ希望を持ちながら生きて来たのです。
讃美の人でした。「いつも」主を賛美していました(6節)。「口には一日中」賛美がありました(8節)。年老いても「いよいよ切に」賛美しようとしています(14節)。楽器を弾きながら賛美しています(22節)。「高らかに」歌っています(23節)。
主を信頼し、賛美しているのは、主が生涯を通じて恵み深くあられたからであり、主は賛美をうくべきお方であることを知らされたからです。年老いて振り返ってみると、生まれたときから主に抱かれていることに気づかされています。
実に主が母の胎から取り上げた方であました(6節)。主は「私の若いころから私を教えてくださいました」(17節)。自分にとっても、主の民にとっても、主は「大いなることを」(19節)してくださったことを思い返すとき、賛美が込みあがってまいります。生涯の中にはおもわしくないことがたくさんありました。主は「私を多くの苦しみと悩みとにあわせなさいました」。
しかし、主は決してお見捨てにならず、「私を再び生き返らせ、地の深みから再び私を引き上げて」(20節)下さる方であることを信じて疑いませんでした。主は私を「贖い」(23節)出してくださいました。
彼の生涯は順風満帆とはいきませんでした。外には悪者、敵、いのちをつけ狙う者がいました(4、10節)。年とともに衰えを感じるようになりました(9節)。
しかし、彼は主に信頼し祈りました。
「年老いて白髪になっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおもあなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを後に来るすべての者に告げ知らせます。」
これは私の祈りとなっています。
(9月11日礼拝)
聖徒たちと同じ国民
エペソ人への手紙2章19~22節
イエス・キリストを信じて生まれ変わった人の証しを聞いていると、色々な感想を聞くことが出来ます。ある方は、朝起きて見ると、周囲の景色がとても美しく感じられた、と言います。もちろん、喜びとか平安が心に生じましたと言われる方もあります。もう一つ、大きな意識の変化があります。それは、「聖徒たちと同じ国民であり、神の家族」に加えられたという実感です。
パウロが18節まで述べましたように、私たちは「自分の罪過と罪の中に死んだ者」(1節)であり、救いから遠く離れている異邦人(11節以下)でした。「聖徒たち」「神の家族」とは似ても似つかないものでした。それが今、「聖徒たちと同じ国民」「神の家族」であるというのです。驚くべき特権です。
「聖徒たち」とはどのような人たちでしょうか。旧約聖書にはたくさん紹介されています。例えばアブラハムです。アブラハムは主のみことばに聞き従った人です。かつて、現在のイラクに居住していたアブラハムは、主のお召しに従って、「どこに行くのかを知らないで」出かけました(創世記12章)。また、アブラハムは信仰の人でした。75歳の時に約束された子孫について、99歳になるまで実現しなかったのですが、人間的には不可能と思われたことであっても、神を信じて、約束のものを受け取りました(創世記15章、その他)。最も心打つ出来事は、そのひとり語をささげるようにお告げを受けたとき、ためらわず実行に移そうとしたほど、主なる神を恐れていたことでした創世記22章)。
ダニエルという聖徒がいました。非の打ちどころがないほど、人格的に優れていました。ユダヤの国がバビロンによって滅ぼされたとき、捕虜として連れ去られ、捕虜でありながら登用されて、政治的に高い地位を得ました。それを嫉妬した高官たちがダニエルを訴えようとしたのですが、「何の口実も欠点も見つけることが出来なかった」のです。それほどダニエルは神の前に正しい人でした。旧約聖書にはその他にもたくさんの聖徒たちの物語が記されています。
新約聖書にもたくさんの聖徒たちが紹介されています。使徒たちはもちろんのこと、最初の殉教者となったステパノ、ピリポ等のほか、コルネリオ、ルデヤ、アクラとプリスキラなどなど。そうした人々がどのような人物であったかを紹介することは出来ませんが、新約聖書をお読みくださいますと彼らのことを知ることが出来ます。
これが聖徒の姿です。聖書には、そのほか多くの聖徒たちのことを語っています。
その後の教会の歴史の中に、数え切れないほどの聖徒たちがいました。スミルナのポリュカルポスは、「86年間あの方(イエス・キリスト)に仕えてきましたが、あの方から不当な扱いを受けたことはありません。それなのに私を救ってくださった私の主であるあの方をどうして冒涜することが出来ましょうか」と言い残して殉教しました。
そうした聖徒たちからいかに遠く離れた異邦人であったことか。神に従うことも、神に信頼し信じることも、神を恐れることもなかった異邦人である私たちを、神は、御子を信じる信仰によって罪を赦し、「隔ての壁」「敵意」を取り除いてくださって、一つとなし、「聖徒たちと同じ国民」「神の家族」としてくださったのです。
(7月24日礼拝)
以前は異邦人でした
エペソ人への手紙2章11~18節
二章に入ると、パウロは、私たちが救われているのは神の恵みによることを強調しています。初めの部分では、救われる前の私たちの状態がどうであったかを述べることによって、救いがいかに主の恵みによるかを強調していました。つまり、私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であって、その生活がいかに堕落し、不敗し、罪深いものであり、神に全くふさわしくなくなっているかが強調されていました。
今回の箇所には、違った面から、救いがいかに神の恵みによるかが強調されています。私たち異邦人は、立場上、救いから遠く離れているというのです。その私たちが救われているというのですから、救いがいかに神の大きな恵みによるかを知らされます。
私たちは「肉において異邦人」でした。神の契約のしるしとして受けていた「割礼を持つ人々」からは「無割礼の人々」と呼ばれていました。ユダヤ人たちはメシヤ(キリスト)の約束を受け、キリストを待ち望んでいましたが、私たちは「キリストから離れ」ていました。神の約束の民であった「イスラエルの国から除外され」ていました。「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という契約にあずかっているわけでもなく、メシヤの約束を受けていた主の民とは異なる民族でした。「約束の契約」については「他国人」でした。この世にあって永遠の望みを知らず、神もない人たちでした。神と言えば、人とか動物、あるいは彫像のようなものでしかありませんでした。
このように、主の民になる望みが全くなかった私たちが救われて主の民に加えられているのはただ神の恵みによるのです。約束の契約にあずかっていた主の民と異邦人である私たちとの間の「隔ての壁」はキリストによって破壊されました。もはや、異邦人である私たちを主の民から隔てていたものはなくなってしまったのです。
私たちは「キリストの血によって」近づけられました。「キリスト・イエスの中にあることのより」近づけられ、「一つに」されました。「二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて」くださったのです。このようにして平和が実現され、「一つのからだとして、十字架によって神と和解させ」られました。神の恵みはこれほど偉大なのです。
(7月17日礼拝)
良い行い
エペソ人への手紙2章8~10節
前回、この個所からキリスト者は「神の作品」であることを見ました。今回は、どのような目的で神の作品とされているのかを見ることにいたします。「良い行い」は社会生活の倫理にかかわる基本的なことがらであり、ボーイ・スカートなどでは、「一日一善」を目標に掲げ、どんな小さなことでも善を行うように指導されています。
私たちキリスト者にとって「良い行い」とは何でしょうか。私たちは、神に受け入れられる良い行いをする資格や力があるでしょうか。そのように問われると、否定的な回答をせざるを得なくなります。確かに社会には良い行いをしておられる方がたくさんいます。特に、東日本大震災に際して、多くの方々がボランティアとして現地に赴き、良い行いとしか言いようのない支援活動をしておられます。
私たちが注目しなければならない「良い行い」は、「良い方」から出る良い行いであって、一見通常の良い行いとなんら変わらないように見えますが、そこには「良い方」である神の御性質が現れています。単に形の上で「良い行い」であるばかりか、動機や心までも「良い方」によって支配されています。
旧約聖書では、貧しい人に物惜しみしないで貸し与えることや、取り込み損なった麦束、取り残してしまったオリーブの木の実やぶどうを集めてはならなかったのです。それらは旅人や貧しい人々のために「良い方」によって与えられていたのです。新約聖書では、強盗に遭遇し、半死半生の目に遭ったユダヤ人を助けたサマリヤ人の行為、あるいは空腹の人に食物を与え、渇いている人に水を飲ませ、旅人を宿し、裸の人に着る物を与え、病気の人を見まい、牢にいる人を訪ねることなどが取り上げられています。
「良い行い」は神によってあらかじめ備えられています。「良い行い」は、救われるために積み重ねなければならない功徳のようなものではありません。私たちは神によって備えられている「良い行い」に歩むために、神によって、キリスト・イエスにあって造られているのです。「良い行い」は毎日の生活に現れます。特に、神の摂理の中に生きる中で、特別な、それが大きく見えようと小さく見えようと、「良い行い」となって現れることがあります。すべては神によって備えられている「良い行い」なのです。
(7月10日礼拝)
神の作品
エペソ人への手紙2章8~10節
被災地を訪問しながら感じたことの一つは、被災された方々にどのように寄り添ってあげることが出来るか、隣人のために何が出来るかということでした。自分の無力さを強く感じました。そうした中で、私たちが救われているのは「良い行いをするため」であると聖書は述べています。もう一度、主のみこころへとみことばによって導いていただきたいと願っています。
パウロは救われた人々のことを「神の作品」であると述べています。もともと私たちは神によって造られました。創世記1~2章にその詳細が記されています。人間はほかの生き物と違って、神のかたちに造られました。しかし、「ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった」(ローマ5:12)のです。その結果、知性、意思、感情のすべてが損なわれ、神の栄光を現すことが出来ない状態になってしまいました。
しかし、神はそのような状態になってしまった人間をお見捨てにはならず、「キリスト・イエスにあって」造り変えてくださいました。「私たちは神の作品」なのです。「新しく造られた」(Ⅱコリント5:17)のです。「神に造られた」「神の作品」という場合、文字通り神によって造られたのであり、自分で自分を変えたのではありません。いくら努力しても「神の作品」に自分を変えることはできないのです。私たちは「恵みにより、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。」私たちは「キリスト・イエスにあって造られたのです。」ですから、キリスト・イエスから離れては神の作品ではなくなってしまいます。
私たちが神の作品として造られているのは「良い行いをするため」です。そのよい行いは神が「あらかじめ備えてくださったのです」。「良い」ことは「良い方」から、すなわち神から来るのであって、私たちから出るものではありません。よい行いが何であるかを、神は聖書全体を通して告げておられます。特に神の律法の中に具体的に告げられています。
良い行いに歩むために、神は私たちに御霊を遣わしてくださっています。御霊に従って歩むとき、私たちは良い行いに歩むことが出来るのです。
キリスト者は神によって造られ、神によって備えられている良い行いに歩む人です。 (7月3日礼拝)